前回記事の続きとなります。
前回は「真説・企業論」をご紹介しましたが、今回は「日本の没落」をご紹介します。
これはドイツの哲学者オスヴァルト・シュペングラー「西洋の没落」の刊行100年後にして、西洋の没落を参考に日本の現状を論じたものになります。
この記事における「本書」は「日本の没落」、「本書の筆者」は「中野剛志氏」です。
西洋の没落
シュペングラーは、「文明」を「文化の栄枯盛衰における最終末期」つまり「文化が没落している状態」と定義し、西洋文化の没落とはつまり西洋文明の誕生を意味しています。なんとシュペングラーは産業革命を西洋文化の隆盛ではなく西洋文化の没落と西洋文明の隆盛であるとみなしていたというわけです。
文化と文明の何が違うかと言うと、文明は文化と違って外への膨張圧力があるという整理をシュペングラーはしています。帝国主義につながる説明ですね。
経済成長の終焉
本書には、タイラー・コーエンの紹介があります。タイラーコーエンによれば実はアメリカは40年前から全要素生産性の伸びが停滞しており、大停滞と呼べる状態が続いています。ローレンス・サマーズが2008年以降を「長期停滞」とよんでいますが、もっと長いものです。
IT中心の第三次産業革命は、第二次産業革命に比べればインパクトは小さく、やはり経済は伸び悩んでいます。
もちろん世界史を振り返ると、経済が成長していた時期というのは産業革命以降の短い期間だけであり、むしろ経済が成長してない時期のほうが世界史をにおいては長くを占めているのですが、これは「西洋文化の没落」よりも先の「西洋文明の没落」にも差し掛かっていると筆者は指摘します。
グローバルシティ
シュペングラーは、人間存在を「現存在」と「覚醒存在」に整理します。「現存在」の代表例は植物、「覚醒存在」の代表例は動物です。
人類はもともと狩りや遊牧をして生きる野蛮な状態(遊牧民に怒られそうな表現ですがここはシュペングラーの表現ですので勘弁してください)で歴史を歩み始めますが、このときの人類は覚醒存在であるとシュペングラーは整理します。
しかし人類は農耕を学ぶにつれて、現存在としての存在感を強めます。土地と密接に繋がった生活をするようになるからです。
その後、都市が発達し、文化が勃興します。シュペングラーはこの都市文化発達時の人間は、現存在と覚醒存在としての調和がとれた存在であると説明します。
そして、文明が勃興し、文化が没落するにつれて、人間は再び覚醒存在としての色彩を濃くします。
そして文明が発達すると、人間の覚醒存在優位は頂点に達し、土地に根を下ろすことなく遊牧するようになるというのです。といっても、荒野を遊牧するのではなく、「知識経済」の中を、です。
なんと現代では、ニューヨークやロンドン、東京のようなグローバルシティを中心とした知識経済にて、人間が土地に根を下ろすことなく遊牧しているではありませんか。
そして経済成長の終焉が、この後来る文明の最終末期を示していると本書筆者は指摘します。
現存在、覚醒存在といった議論は、論理的オカルトと言っても遠すぎる批判ではありません。
が、このような概念での整理をすれば人間社会の先が見えてくることはたしかでしょう。拙ブログの将来予想は知識経済の最終末期とも言えるものであり、シュペングラーの説は拙予想とも通ずるものがあります。
人口減少
シュペングラーは人口減少も没落の兆候であるとしています。シュペングラーは少子化の現象を「覚醒存在の現存在に対する優位」であると指摘します。
論理オカルト感が否めませんが、知識経済化により子供を授かることの合理性について考える人が増えたのは確かです。
やはりシュペングラーの議論は当時にしてはかなり先を見ることができていますし、現代より先を見るコンパスの一つに使えるフレームワークの一つとして有用なのは確かでしょう。
まとめ
シュペングラーの現存在、覚醒存在といった論理オカルト感ある議論は、「西洋の没落」刊行当時から大論争があったようですから、当然ながらすべてが正しいものではありません。
しかしながらこのようなコンパスを使えば百年前から現代の予想がある程度できたというのは驚くべき事実でしょう。そして今後の人間社会の予想もある程度予想が付きます。文明の没落が完全に終わるまで、総合コンサルバブルとITエンジニアバブルは終わりません。拙予想の裏付けになることに、少し興奮がありました。
そしてその後の人類は、現存在と覚醒存在が調和した都市社会に回帰するのか、はたまた覚醒存在が現存在に対して優位という状態を超えて完全なる覚醒存在になるのか。。。まあそのときになるとさすがにコンサルバブルは終わって、自分でもの作れるエンジニアの需要だけが残るのかもしれないですけどね。
是非読んでみてください。