科学と哲学、反証可能性基準

反・反証主義な共産主義者たちに絡まれたのでせっかくだし科学哲学的なことをまとめておく。

偽偽性と偽真性

偽偽性と偽真性という言葉を定義する。これは一般的に使われている偽陰性偽陽性と同じ用法で、

  • 偽偽性: ある命題を、全知全能の神から見て(つまり真理として)真であるのに人間が偽だと判断すること
  • 偽真性: ある命題を、全知全能の神から見て(つまり真理として)偽であるのに人間が真だと判断すること

これは第一種過誤と第二種過誤とまったく同じではあるが、そのままだと意味が直感的にわかりにくいので簡単化のために定義する。ようは言い換え。

次に、”ブランドイメージとしての科学”を定義する。ようは、科学という言葉に人はブランドを感じていて、権力者・有権者は科学を自らを援護する形で利用したくなるものであるということ。この定義は経験則的である。

ここで、”ブランドイメージとしての科学”が、偽偽性による過誤を起こした場合と、偽真性による過誤を起こした場合をそれぞれ考えよう。

“ブランドイメージとしての科学”が、偽偽性による過誤を起こすとどうなるかというと、本当は新発見なのに”これは新発見ではない”という反応になる。これに対して”ブランドイメージとしての科学”を援用したい権力者・有権者は、新発見ではないのだから何もアクションを起こす動機がない。

一方で”ブランドイメージとしての科学”が、偽真性による過誤を起こすとどうなるかというと、本当は間違っているのに”これは新発見だ”という反応になる。これに対して”ブランドイメージとしての科学”を援用したい権力者・有権者は、その”新発見”(真理としては新発見ではない)を利用し、社会に変化を与える。

このようなことから、”偽真性は偽偽性よりも社会に有害である”という経験則を定義できる。

反証主義

“偽真性は偽偽性よりも社会に有害である”という経験則から、”偽偽性の発生に目を瞑ってでも偽真性を防ぐべき”という規範的主張が生まれる。社会に有害なことは防ぐべきであるという仮定に基づく(この仮定に反対する人はほとんどいない)。

第一種過誤と第二種過誤は、トレードオフの関係にある。つまりどちらか一方を防ごうとするともう一方が起きやすくなる。

また、”防ぐ”の定義であるが、”完璧に無くす”のではなく”減らす”という意味であるとする。

科学が偽真性を起こすことで社会に害をもたらすのは、先ほど言った通り、権力者・有権者が、”ブランドイメージとしての科学”を自分のために援用したいと考えるからである。

この偽真性を防ぐ基準として、論理実証主義による検証基準が挙げられる。論理実証主義のあとに続いてポパーはこの検証基準が使えない基準であると批判し、反証可能性基準を提唱した。

簡単に言うと、検証基準は”正しいと完全に立証されたもののみ正しいものとみなす”ということ。

反証可能性基準は”間違いであることを立証する方法があるにもかかわらず間違いであると立証されていないもののみ、暫定的に正しいものとみなす”ということ。

そしてポパーは”反証する方法のない命題は科学的でない”という形で”科学”を定義した。

  • 科学: 反証可能性のあるもの

ちなみに

ナチスは、論理実証主義を迫害してきた。なぜならアーリア人種論などのナチスの主張は検証可能性・反証可能性ともに持たない思い込みであるため、これらの基準を適用すると”ブランドイメージとしての科学”を援用できなくなるからである。

原典原理主義(数理化などに否定的な)共産主義者が反証可能性に強く反発するのも、当然これらに反証可能性がないからである。

科学と現科学

ポパーとそりが合わない科学哲学者の例としてクーンが挙げられる。

クーンはパラダイムの概念を主張した。簡単に言うと、”科学の発展はパラダイムシフトにより起こるが、これは新旧パラダイム間での繋がりが連続的でない、断続的な発展である”ということ。さらにパラダイムシフトには(反証主義的な定義で)科学的でない思い込みや信仰が根拠になるとまで言っている模様。

クーンはポパーに批判された(同じくポパーとそりが合わないファイヤアーベントにも批判されている)が、反証主義と本当に矛盾するのかということはちゃんと考えればそうでもないことがわかる。

というのも、反証主義は”科学”を”反証可能性のあるもの”としたが、”現実で科学と呼ばれているもの”が”反証可能性があるもの”であることとは別である。

これが等価であると主張するということは、”現実の科学”は必ず”科学”としての望ましい性質を満たしているということを暗黙的に仮定していることになるが、この仮定に根拠がないので飛躍になるのである。

以後、”現実の科学”というのは長ったらしいので、現科学と呼ぶことにする。以下のように定義する。

  • 現科学: 科学に近づこうとする=反証可能性を獲得しようとするもの
  • 現哲学: 現実に行われている論理的な営みのうち、現科学以外のもの

これらは”現実に行われている論理的な営み”を全体集合とするMECEな区分である。

ついでに以下も再定義する。

  • 科学: 反証可能性のあるもの
  • 哲学: 論理的な営みのうち、科学以外のもの

これらは”理想像としての論理的な営み”を全体集合とするMECEな区分である。

※ポパーが定義したものではない。著者が議論に基づき整理した定義。

話を戻すと、クーンのパラダイム論が正しいと仮定しても、”現科学には反証可能性のない信仰・思い込みが混ざっている”という主張にしかならず、”科学”の定義になんら矛盾をきたすものではない。”現科学とは科学に近づこうとするものである”という定義にも、なんら矛盾がない。クーンのパラダイム論をもって反証可能性基準の矛盾を指摘することはできていない。

ようするに、これらは矛盾なく両立をしようと思えばできるということである。

科学と哲学の重要性

反証可能性基準は、”科学”のあり方に焦点を当てているので、”反証可能性基準を満たさない命題にも人間のあり方にとって重要な命題は存在する”という意味の批判が来やすい。

数理モデル化することができなくとも、経済学の数理モデルよりもっと大事な人間のあり方というものがあるだろう、という風に。

しかしこれ自体は反証主義からしても支持できる命題であり、実は何の対立軸もない。

まあ数理モデル(と数理モデルに関わる人間の態度)を知らない人がこのような議論をすることが多いのが混乱の元ではあるが(一部の例外的な存在はあれど、数理モデルに関わる人間は数理モデルの限界も同時に学ぶはずであるのに、それを知らずに数理モデルに関わる人間を一律に批判することがしばしば起きる)、それだけではなくて、反証主義はそもそも”反証可能性のないものはすべてゴミ”とは一言も含意しないのである(すべてゴミとは言ってない、つまり部分的にゴミはある)。

反証可能性を持つことができないものにも、重要なものがあることはわかっているということである。

先ほど名前を挙げたファイヤアーベントは、簡単に言うと、反証主義のもとになる批判的合理主義を、縛られた不自由な思考になるとして批判した。

反証基準などの基準に盲目的に従っていると自由な思考でなくなり、自由社会に向けての人間のあり方がおざなりになる、と。

それに関しても、反証可能性を持つことができないものにも、重要なものがあることはわかっている、ということで、矛盾なく両立することができると考えられるのではないか。

現科学は、科学の定義に近づくべく反証可能性を持とうとしてきたからここまで発展してきたのであり、現科学+現哲学がすべて”哲学”だったら、ここまで発展しないし、偽真性による害も起きたかもしれない。

一方で現哲学があるからこそ、反証可能性基準に縛られた不自由な思考に陥ることもなく(ファイヤアーベントの主張を満たす)、パラダイムシフトによる発展(クーンの主張を満たす)が起きる環境が整っているともいえる。

反証可能性基準に強く反発する原典原理的共産主義に関しては、反証主義はそもそも”反証可能性のないものはすべてゴミ”とは一言も含意しないということを理解してもらうしかないだろう。彼らの反発の原因はその勘違いか、もしくは”反証可能性のあるものはすべて(部分的にではなく!)人間のあり方を見えなくする有害なもの”という極めて強い信念のどちらかであるが、後者ならどうしようもないだろう。

ちょうどこの辺りが、今風な反証主義のちょうどいい落としどころなのではないか。